昭和40年08月03日 夜の御理解



 今日、親教会の夏のご大祭でございました。私も今朝から御祈念の後、すぐ下がらせてもらって、お食事を早めにすませてお初穂の整理して、私は少し早目におかげ頂きたいと思うて、お初穂の準備させて頂きよりましたら、丁度昨日お供え物買いに行ってから久留米の帰りから気分が悪くなったような、またこりゃ気分が悪くなりよるなと自分で分かるんですよね。気分がその悪くなってまいりました。
 とうとう家内を代参させて、久保山先生が皆、ご信者さん方を引き連れて参って下さった。沢山お参りもあったそうでございますけれども、私はとうとう、そんなわけでご無礼をいたしました。それであちらのご大祭がすんでから、皆さんこちらにまたお礼に参拝してみえられましてから、私が、まだ悪そうにしとるもんですから、今朝の御理解だけ頂いて皆帰りますからち言うておられました。
 本当、私は、休んでおりましてから、皆さん帰ってみえたから、起きたんですけれども、その時あのウトウトしながらお夢を頂いておった。それはあの吉井の、波多野さんが古い、古ぼけたような原稿用紙に2枚何か書いておられます。それを読ませて頂いたらもう素晴らしい名文章でね、その信心の、自分の日常生活のことを、信心での日常生活のことをずっと書きつづっておられる。
 もうそれをはっきり夢の中で、私は読ませて頂いてから、思っておるんですね。有り難いな、今朝当りの御理解を頂くと、今度合楽に移らせて頂くあのお広前のことを昨日(よんで?)神様はこう仰った。宗教の宗教センターと仰った。宗教の中心地と仰った。金光教だけではない、本当にあらゆる宗旨宗派の人達が信心を本気で求めて、おいでられてもう一段信心を進めようとされる方ならばです、椛目の御理解によって一段信心を深め、進めすることが出来るだろうと。
 椛目の場合は教団だけではなくてです、例えばお取次ぎとかご結界とかと言う様な特別の、お道の言葉を使わなかったらどういう宗教人の方にでも、分かるだろうと言う様な内容を持っておることを私は有り難いと思うんです。又、そうなんです。ですから皆さんはそういう、み教えを朝晩頂いておられるわけなんですけれども、そういうように宗教センターと言ったような、その内容が段々形に現れてくるようになればです。
 ご信者さん方でもやはりここで頂いた信心を、又は体験をですその美しい言葉で、又は文章でです、いわゆる文章布教と言った様な事も出来るのに、これは波多野さん当りの様に、文章の上手な人達が椛目に出来たということは有り難い事ではある。何処の新聞社か、何処かは知らんけれども雑誌社か知らんけれども、これは投稿されるわけなんだけれど、本当に有り難い事ではあるという、言いながら思いながら目が覚めた。
 そしたら、その皆が参ってきとるわけですたい。それでそのテープを聞くと、そこでみんなが庭先に集まってから、波多野さんかげ頂いたね、私は今あんたの夢頂きよったっちゃったっち言うてから。実はこうこうだったと言うたら、ホッと顔色変えてからですね、もう先生恐れ入ってしまいますっち言うてから言われるんですよ。もうこれは私は誰にも子供にも申しません、親先生にもお届けしませんでしたけれども、今日その原稿を書き上げたというんです。
 それもあんまり宗教臭ってはならないけれども、日頃の信心を書いてですね、何かあの、テレビ局の、何かに募集があっておったのに、締切が今日限りになってたらしいです、だから思いながら、心にその案は出来ておりながら書いていなかったのを、今日書き上げてですね、先生その原稿用紙の古かつも、やっぱその通りで御座いますっち言うてからまぁ恐れ入ってしまいます。と言うてから感激されるんですがですね。
 皆さんそう言う様な事をね、どう言う風に感じどういう風に頂くかと。こりゃお互いでもそうでしょうが、私がお腹が痛み出すと繁雄さんがその野菜畑に出ておられても、お腹がせきだすあいたこりゃ先生が具合い悪んなさるかもしれんけ、ち言うて見えると私がと言った様なですね一つの交流というもの。そう言う様な言うならば不思議な事って言うのは、どう言う様な見方をしどう言う様な頂き方をしなければならんだろうか。
 そしてまたそれがどう言う様な結果になることだろうかという事なんです。はぁほんに有り難いこっちゃ。不思議なこっちゃあるだけではいけないですね。先ほどむつやの信司さんが、繁雄さんと二人でお礼に出て参りました。この頃からもご承知のように、九州高校の柔道の試合が御座いまして、福岡の何とかセンターって御座いましたですね。南筑高校が優勝いたしました。
 もう本当にこんなに大きな実にボリュームのある金のメダルをね、首からこう掛けて掛けさせてみてから、本当に有り難いなぁと思うんですね。御霊様が喜びござろうと思うてから。本当に健二さん本当に御霊様の働きを頂いておるとばい、僕がが南筑校にいっとる間は一つ南筑校が本当に、どこにもひけを取らんような立派な成績をおさめるようなおかげ頂かんならんねと、もう去年で二年目優勝なんです。
 そして昨日から今日にかけて、熊本の体育館で、今度は九州中の高校の野球の大会がございました。今日愈々選ばれて日本一が出来るわけなんですね。おかげを頂いてから日本一になったんです勝ったんです。本当にもう信司さん達も応援に行ってから、ぼくの方が投げられるようで、もう体が痛うしてこたえんっち、あんまり体で応援してですね。まぁそのくらいにはあるでしょうね。弟が。
 ところが僕んところの弟は、大将で今度は出場したんですもんね。大将同士の決戦の時に負けたとこう言うわけなんですね。なんやらその非常に何かこうやって投げるのが得意、特長らしいですね。もう派手なその手があるだけに、派手な投げ方をするそうですね、負けよる時にも。まぁそげなん時にはガッカリすると言った様な事を言ってましたけれども、私は思うんですよね。
 どうでも一つ南筑高校が九州一になりますように、又はどうぞ今日の大会では南筑高が日本一の勝ちうることが出来ますようにという願い。これはもう兄弟もお母さんもお母さんといや田代さんですたいね。田代さんも。それから自分ももうその、南地区柔道部としてのお届けを何時もするんですよね。そこに私は思うんですけれどもね、例えば勝たなくても、そりゃ5人抜きとか10人ぬきとかといったような個人優勝をする人もある。なるほど気分がいいだろうと思うですね。
 例えばなら南筑チームは、自分が大将として出たんだけれど、自分も成績が悪かったけれども、4人か6人かの他の選手達が成績が良くて、幸い南筑高校が、例えば優勝したという時に、はぁ良かったおかげ頂いた、南筑高校が一番になった、日本一になったというような事と同時にです、自分がいわば派手の手じゃなかった事に何かこう淋しさがあるじゃなかろうかと思うですね。
 こう言う様な場合なんですよ。例えば椛目の御造営の場合、本当に矢面表に立ってです、本当に人からご苦労さんご苦労さんと言われるような華やかな御用をしておる人もある。誰も知らん。誰も知らんけれども人後に落ちない御用を一生懸命しておる人もある。ね、けれども私は思うんですけれども、自分を犠牲にしてでも、例えばその全高が優勝すればよいと言った様な信心。
 私の事は誰が誰も知らんでもいい縁の下の力持ちでも良い。誰から崇拝されでも良い、神様だけがご承知の世界に生き抜かせて頂くと言った様な信心がです、私は徳になると思うですね。話が先ほどの波多野さんの事を私共とのいわば交流なんですね。私が夢の中に現れて来る所のもうそのままの事です。それを波多野さんが聞かれてビックリされる程の、その事実がですたいね夢の中に今日一日自分がして来た事がです、言うなら私の夢の中に現れておると言った様な事柄がです、どう言う様な事だろうか。
 どう言う様な関係を持つのであろうかと。それをどういうふうに見たらよいだろうかと。ね。ただ本当に神様の世界ちゃ不思議なこっちゃある。はぁ親先生本当にもう見抜き見通しじゃと言ったような事が分かっただけじゃいかんという事。ね、私その事をお礼、ただ今申させて頂きよりましたら、光と光の交錯を頂くんですねこう、光と光が両方から交錯しておるところ。
 いわば私の受けておる信心と、言わば波多野さんが受けておられる、信心の徳と徳とが交流しておる。光が交流しておる時にです、そう言う様な、奇跡的な現象というのが現れてくるんです。ならそういうような、例えば信心とはどういうところから現れてくるかと言うと、お徳を受けていく信心とは、私何時も説き聞かせて頂いておりますように、様々な信心がございましょう。けれどもただ今申しますような、信司さん健二さんの、今日の柔道の試合じゃないですけれども。
 自分が一生懸命最後に残ったのが奈良の天理高校だったそうです。天理高校と南筑高校が最後まで残ったんですね。ほうして見たらなら金光様と天理教の最後は接戦じゃったばいのっち言うてからお話した事です。ほりゃ天理の人達大変な祈りを送ったでしょう、けれども椛目からの熱烈な祈りが行っとるのは間違いないですよね。その祈りと祈りのな熱線がです、光のその交錯と言った様なものがですね、確かに目には見えないけれども霊的な言わば現象として結果として現れてのが優勝という事になっているんです。
 けれども健二さんには、言わば本当な、気分の良い勝ちは与えておられないというところにです、神様の深い御神意を、私共悟らんわけにはまいりません。優勝したもう大将が最後に勝ったから優勝したと。ほりゃもう鼻高々でしょう。けれどもそれは何になる事になるだろうか。その時は気分が良かった、南筑高が優勝したけれども、健二さん自身が徳を、いわば受ける事は出来ないだろう。
 そういうところにです私共は、信心のその見方というものをですね、それをどう見るかという事のなどにですね、ただ不思議なお知らせを頂いた、例えば私と繁雄さんとの交錯というものがです、ただほんに繁雄さんちゃ不思議な人じゃある、あの親先生の徳じゃろう、繁雄さんもお徳を受けらっしゃったというだけではなくてです、そこにどう言う様な事から、その光の交錯が生まれてくるのかと。と言う様な事を私は追求して解っていかなければ、ただ不思議な現象を見たり聞いたりしただけでは値打ちはない。
 今日、善導寺から帰ってきた、みなさんがですね、その事を聞いてからもう本当にちょいともう、有り難いこっちゃある、不思議なことじゃあると言うて、皆さんが、まぁ自分のことのように喜ばれるわけなんですよね。そういうような、言わば生きた神様の働きというものを、椛目では絶えず何時も皆さんがです、見たり聞いたりしておる事。そういう中で信心が、育てられていきよるという事が、また一段有り難いということにならない、ければならんのじゃないでしょうかね。
   おかげを頂きますように。